2021-06-01 第204回国会 衆議院 環境委員会 第13号
本当に、古くはシーボルトとかトーマス・クックとか、いろいろな人が多島美ということでこの瀬戸内海の美しさをたたえられておりましたし、残念ながらコロナでちょっと途絶えましたけれども、インバウンドも非常にこの間、瀬戸内海は多かったんですね。ですから、海外のメディアからも行くべき目的地の一つとして瀬戸内ということが挙げられたぐらいになっていたので、観光資源としても非常に重要だと思っていて。
本当に、古くはシーボルトとかトーマス・クックとか、いろいろな人が多島美ということでこの瀬戸内海の美しさをたたえられておりましたし、残念ながらコロナでちょっと途絶えましたけれども、インバウンドも非常にこの間、瀬戸内海は多かったんですね。ですから、海外のメディアからも行くべき目的地の一つとして瀬戸内ということが挙げられたぐらいになっていたので、観光資源としても非常に重要だと思っていて。
なお、この日の午後、寺崎は対日理事会議長兼連合国最高司令部外交局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問する。シーボルトは、このとき寺崎から聞いた内容を連合国最高司令官及び米国国務長官に報告をする。最高司令官は当時マッカーサー元帥であります。
一八二六年にはドイツのシーボルトが船で瀬戸内海を往来するわけですけれども、このとき言ったのは、これまで日本で見た景色で、見た最も美しい景色の一つだと、そこまで言っている。 それから、このシーボルトがそういうことを書いて、おかげで欧米人の間で瀬戸内海見ようじゃないかというブームが起きて、十九世紀幕末から明治時代の終わりに、欧米人がこぞって瀬戸内海を航行されると。
○藤本政府参考人 ちょっと補足をさせてもらいたいと思いますが、地図とそういう国防とのかかわりみたいな話、伊能図も、先生御承知かどうかあれですけれども、シーボルトが伊能図を海外に持ち出したというので、結局、その持ち出した張本人、伊能忠敬の恩師の息子さんが獄死をしているとか、何人もつながれたとかいうこともございますし、明治に入っても、地図が機密漏えいをしたということで、いろいろな事件が起こったりしております
○土肥委員 シーボルトが持ち出したのは、これはやはり日本の機密情報、地図情報を持ち出したわけでございまして、それはとがめられるところがあるわけでございますけれども、江戸幕府が伊能忠敬に計測をさせて、それは立派な日本地図が初めてでき上がるわけですから大変結構なことですけれども、何か軍事情報と関係があるのかなということを懸念しただけでございます。
そのときに、洋画をフランスで勉強したということでフランスに知人が多くて、シーボルトの息子が頻繁に手紙をよこしたり、それから日本へ来たときに彼を頼ったとか。 それから、イタリアのラグーザ。
○北澤俊美君 繰り返すようでありますけど、先ほどのシーボルトの事件は蛮社の獄として我々も中学校の社会科の勉強で教わったような気がいたしますが、先ほどの川上冬崖も結局は冤罪であるんですけれども、横須賀の造船所が造成されようとしているときに横須賀の地図を外へ出したと。そうでなくて、本当はそうでなくて、裏で、それが出された形にして、それがまた封を切らないまんま山県有朋のところへ戻っていたと。
シーボルト大使に会っているわけですね。 そのときに先方から説明があって、その一番の焦点が八ページ目から九ページ目に書いてあるんです。何て書いてあるか。これは日本側がとった意図でもあるんですけれども、八ページ目の一番最後から、「この点を明白にしておくため、「この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持並びに外部からの武力攻撃に対する日本の安全に寄与するために使用することができる。」とする。
そのために、例えば坂本竜馬だとか、これは幕末ですが、あるいはもっとさかのぼれば豊臣秀吉だとか、あるいは外国からはシーボルトだとか、そういうさまざまな歴史的な人物がそこに行き来をして、そうしたものが一連の文化財となって残されておる。 国の指定文化財は全部で、史跡や名勝を含めて九つも、小さな町、人口が六千人か七千人ぐらいのそんなところにある。あるいはまた県の重要文化財、これが八つ。
そういう中で、大変ショッキングなのが、一九四七年九月に、昭和天皇が側近の寺崎英成をGHQに行かせて、GHQの政治顧問シーボルトに、アメリカが沖縄を二十五年ないし五十年、あるいはそれ以上軍事支配することは、アメリカの利益になるのみならず日本の利益にもなると、いわゆる天皇メッセージを発した。これは私たち沖縄の人にとっては大変衝撃的なことでありました。そのことは明らかです。
例えば、今でも重要文化財に指定している例として二つ挙げますと、徳川家康関係資料の中に日本製火縄銃二丁が、これは幾つかの中の一つとしてこの火縄銃が指定をされておったり、あるいはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料の中に英国製短銃が一丁、重文に指定をされておる。そういった現状になっておりますので、これらクラスになるとそういう登録の対象にもなり得るというふうに考えております。
○説明員(小林孝男君) 今お話がございました旧島原藩の薬園跡と申しますのは天保十四年、一八四三年でございますが、これは島原藩がシーボルトの門人でございます賀来佐一郎らに開かせたものでございまして、江戸時代におきます本草学の発展をよく示すものとして、また薬草園の実態を示す数少ない遺跡ということでございまして、昭和四年に国の史跡になっているものでございます。
調査に出ておりますので、こういう意味で、これはシーボルトがかつて幕末に樺太、千島の調査に関係しまして国外退去を命ぜられたこともあって、日本の昔からの関心のあるところなのですが、この鳥居さんのこういう調査があるということだけ一言申して終わりたいと思います。
そういうことで、そう数は多くはございませんが、千島は先ほどから申しておりますように、アイヌの人の土地で、そこに当時のロシアの探険家、日本の間宮林蔵とかその他が調査に入って、倉成外相自身の属しておられる長崎は関係の深いシーボルトは、時の徳川の天文方の高橋景保からあそこの調査の資料を受け取って、それを持っていたことが、たしかそれが理由でスパイ的に見られて、最初追放されたわけですね。
○国務大臣(倉成正君) 私も大学で国際法を横田先生に習いましたし、また長崎に緑の深いシーボルトのお話等々、いろいろ先生の多方面にわたる御意見をごちょうだいしまして感銘を受けた次第でございます。
その意味では、それより一週間程遅れ、総司令部と皇室とのリエゾンとして宮内庁御用掛をつとめる寺崎英成からジョージ・アチソン亡きあとのシーボルトを通じて国務省に伝達されたメッセージのほうが、はるかにワシントンの動向と波長の合うものであった。
○政府委員(小和田恒君) 技術的な点にわたりまして大変恐縮でございますが、御指摘がありますのでちょっとお答えさせていただきたいと思いますが、先ほど寺田委員の方から、シーボルト駐日代表代行から国務長官代行あての電報の件について言及がございました。
もっとはっき言えば、二月八日にシーボルト政治顧問から国務省へ電報が打たれておる。この電報の中で、今申し上げたように日本が米軍の指揮下に置かれることは明白である、ただし明文化しないでもらいたい、はっきりこの口頭了解が証拠として、文書として残っていますよ。はっきり文書が残っているのに、吉田首相はそういう気持ちだったらしいけれども確認できないなんていうばかなことがありますか。
ところが安保そのものというのは、そもそもこれは、たとえばシーボルトといいまして元GHQの外交局長でありますが、対日理事会の議長もなされ、あるいは対日アメリカの政治顧問でもありましたシーボルトさんが「日本占領外交の回想」という著書の中で、実はあのサンフランシスコ講和会議における吉田全権代表の演説ですね、これはアメリカが草案を事実上書いて、ほとんど手直しをしてそれを吉田さんが読み上げた。
アメリカ代表のシーボルト——この人は元GHQ外交局長、対日理事会議長あるいは対日アメリカ政治顧問などの肩書きを持つ人ですけれども、その間の事情をここにございます「日本占領外交の回想」この本の中で次のように書いております。「私の同僚の数人が草稿の原文に大急ぎで手を入れた。
簡潔に申し上げますと、一九四七年九月二十日付でシーボルトGHQ政治顧問がマッカーサーに提出したいわゆる書簡の中で、沖繩処分、琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解といいますかあるいは考え方といいますか、そういう書簡が出された。これが沖繩を本土から切り離してアメリカの軍事占領支配に置く重要なきっかけになったのだ、米国の政策に大きな影響を与えたのだというようなことですね。
その結果、何分にも国立公文書館と申しますかナショナルアーカイブズにある資料というものは非常に膨大で、かつまだ整理されていないということで、なかなかその関連の資料の発掘に手間取ったわけでございますけれども、ただ一つだけ一九四八年二月二十六日付シーボルト発国務長官あて書簡というものは外務省として見つけたわけでございます。
○小渕国務大臣 ただいま御指摘をいただきましたシーボルト書簡等につきましての御指摘はきわめて重要な問題だと心得ております。
シーボルトを調べたのか。ケナンを調べたのか。あの国道や県道における行軍、これについてはいまだに調べもつかぬのに、こういう問題となると、もう調べはつきましたと平気で言われる大臣の肝っ玉の太さというのかな、もうあきれ返って物が言えない。問題相手が天皇になると、最後はかあっとなるような体質というのかな。
○瀬長委員 いまシーボルトやケナン、これは本当に公表されていますからね。事実出したのかどうかこれを追及する必要があるのです。 なぜかというと、当時沖繩は天皇のこういった提言に基づいて、現にこれに書かれているとおりの形態になったのですよ、事実は。三条もそのとおり。平和条約三条によって、沖繩は戦略信託統治に置く、その提案をするまでアメリカが三権を全部握る、あるいはその一部を握る、これが三条。
○瀬長委員 天皇のメッセージに関するこのシーボルト文書、ケナン文書、これは事実に反する、信用できぬ、問題にならぬというふうに大臣は理解しておられますか。
まあこれは一つには、この文書は寺崎英成氏が口頭でシーボルトに語ったというふうにアメリカ側で書いておりますが、まず口頭であったということも一つのあれでございましょう。それからまた、寺崎英成氏は当時宮内庁の御用掛という資格で話をしておられるということもございましょう。
○説明員(北村汎君) ただいま先生がおっしゃいました三つの文書は、ただいま御指摘のありましたとおりに、一九四七年の九月の二十日付で最初にシーボルトがマッカーサーに対して寺崎英成氏からこういう話を聞いたというメモを出しました。
○説明員(北村汎君) ケナンもシーボルトも存命中の人物でございますが、すでにシーボルトが寺崎英成氏から聞いたということで、こういう公文書を書いておるわけでございますし、ケナンもそういう文書を読んで自分の意見を書いておるわけでございまして、ですから、すでにもうシーボルトやケナンの考え方というものは、これはもうその文書の中に出ておるわけでございます。